JST、理研、東大などの研究グループ

電子スピン量子ビット素子開発

 JST戦略的創造研究推進事業で、樽茶清悟・理化学研究所グループディレクター/東京大学大学院工学系研究科教授、米田淳・理化学研究所基礎科学特別研究員らの研究グループは、シリコン量子ドット注1) において世界最高水準の演算精度をもつ電子スピン注2) 量子ビット注3) 素子を開発した。

 量子コンピュータは次世代コンピュータの候補として注目され、その情報を担う量子ビットの開発競争が、超伝導素子を筆頭にさまざまなシステムにおいて世界的に激化している。半導体素子を用いた量子ビットの実装は、産業応用の観点から重要である一方で、量子演算速度と情報保持時間注4) の両立が難しく、高性能化が大きな課題となっていた。

 研究グループは、慶應義塾大学の伊藤公平教授と名古屋大学の宇佐美徳隆教授らが新たに開発した、磁気的雑音の極めて少ない同位体制御シリコン注5) 基板を用いて量子ドット素子を作製した。これと特殊な形状の微小磁石を用いた高速スピン操作を組み合わせ、従来の量子ビットに比べて約100倍の演算速度と約10倍の情報保持時間を同時に達成し、量子演算の誤り率の最高値を従来値より約1桁減少させることに成功した。

 半導体同位体技術を適用したことで、この素子における電子スピンの量子情報喪失は、通常の磁気的雑音ではなく、電荷雑音が支配していることを初めて明らかにした。

 同研究成果は、産業集積化に適したシリコン・ナノ構造における超高性能の電子スピン量子ビットの実装方法を確立するもので、今後これを用いたシリコン量子コンピュータ開発の加速が見込まれる。

 本研究は、東京工業大学の小寺哲夫准教授、慶應義塾大学の伊藤公平教授、名古屋大学の宇佐美徳隆教授らと共同で行ったものである。

 本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られた。

 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
 研究領域:量子状態の高度な制御に基づく革新的量子技術基盤の創出
(研究総括:荒川泰彦東京大学教授)
 研究課題名:スピン量子計算の基盤技術開発
 研究代表者:樽茶清悟理化学研究所グループディレクター/東京大学教授
 研究期間:平成28年10月〜平成34年3月

<研究の背景と経緯>

 新しい動作原理に基づき超並列計算を行う次世代コンピュータとして、近年量子コンピュータが注目され、世界的に開発競争が激化してきている。量子コンピュータの最小単位を量子ビットと呼び、これに量子力学的な状態を用いて情報を符号化することで情報処理を行う。高性能な量子ビットの実装に適したシステムとして、超伝導回路や光子、原子、イオンなどを用いた研究が進められているが、なかでも量子ドット中の電子スピンは集積化の観点で産業応用上特に着目されている。量子コンピュータの実用化には量子ビットを大量に並べる必要があるが、シリコンを用いることで現行の集積エレクトロニクス技術の応用が見込めるためである。

 量子コンピュータの計算能力は量子ビットの演算精度に影響を受けるため、実用的な量子ビット演算では誤り率が1%よりもはるかに低いことが必要と考えられている。このため、トレードオフの関係にある量子ビット演算速度と情報保持時間の両方が、高い水準で要求される。従来これらの水準を独立に達成する手法は知られていたが、同一試料で両立した例はなく、量子ドット中の電子スピン量子ビットの実用化に向けた重要な課題となっていた。

<研究の内容>

 研究グループは、歪みシリコン基板中に量子ドット(図1)を形成し、閉じ込められた単一の電子スピンを量子ビットとして用いた。量子ドット直上に微小磁石を配置することで、電子スピンに対して不均一磁場を印加した。素子にマイクロ波電気信号を印加して、不均一磁場中で電子の位置をナノメートル(ミクロンの千分の一)程度変調することで、量子ビット演算に特徴的なラビ振動(図2)を観測した。これにより、通常の磁気的操作に比べて約100倍高速な単一電子スピン演算が実現されていることを確認した。

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図1 量子ドット素子(概念図)
歪シリコン中の2次元電子ガスに、金属電極に電圧を印加することで、単一の電子を数十ナノメートルの領域に閉じ込めている。制御電圧信号を電極に加えることで、電子スピンを操作する。
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図2 単一電子スピンのラビ振動
上向きスピン確率を操作時間に対してプロットしたもの。電子スピンを下向きに初期化した後に、スピン反転操作を行うと、操作時間に応じてスピンが下向きと上向きの間を行き来する。この振動をラビ振動と呼び、その周期から量子演算に必要な時間が分かる。

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図3 量子演算の正確性の検証
ある集合からランダムに選んだ量子演算を繰り返した後に、演算に誤りがないと仮定した理想的な場合とスピン状態を比較することで、演算の誤り確率を検証した結果。点線で示した従来の量子ビットに比べて減衰が遅く、誤り確率が低くなっていることが分かる。

 さらに量子ドットの周りの材料から、(通常のシリコンで主な雑音源となる)核スピンを有する同位体を取り除いた。これにより、高速演算が可能な素子であるにもかかわらず、通常に比べて1桁程度長い20マイクロ秒の量子情報保持時間を観測した。通常に比べて約100倍の演算速度と約10倍の情報保持時間を同時に達成したことで、従来の量子演算の誤り率の最高値を約1桁低減したことを、量子演算の正確性の検証(図3)により明らかにした。

 このとき量子ビットの量子情報を喪失させる雑音源について調べたところ、核スピンに代表される磁気的雑音ではなく、1/fのスペクトルをもつ電荷雑音であることを明らかにした。高速スピン操作により電荷雑音の影響を部分的に相殺することで、3ミリ秒までの量子メモリー時間を実現した。

<今後の展開>

 同研究成果は、産業集積化に適していると考えられるシリコン・量子ドット構造において、超高精度の電子スピン量子ビットの実装方法を確立するものである。これにより量子ドットにおいて初めて、超伝導量子ビットと同程度の単一量子演算が可能となった。演算精度の向上に伴い、電子スピン量子ビットに対して電荷雑音による擾乱(じょうらん)が無視できないことが明らかとなり、今後これを踏まえたシリコン量子コンピュータ開発の加速が見込まれる。

<用語解説>

 注1)量子ドット:電子が3次元全ての方向に対して閉じ込められた構造のことで、ナノ加工された半導体などにおいて実現される。人工原子、量子箱、あるいは量子点とも呼ばれる。
 注2)電子スピン:電子は通常のエレクトロニクスに用いられる電荷に加えて、その自転に相当するスピンという内部自由度を持つ。その自転方向(右回りか左回りか)に応じて、電子スピンは上向きあるいは下向きと呼ばれる。
 注3)量子ビット:従来のコンピュータに用いられるビットは「0か1か」のどちらかの状態をとるのに対して、量子ビットはそれらの量子力学的重ね合わせ状態をとり、「0であり1でもある」状態となる。この性質をうまく利用することで、量子コンピュータは高い処理能力が生み出される。しかし一方で、外界の雑音による擾乱(じょうらん)を受けやすく、情報保持時間が限られるといった問題がある。
 注4)情報保持時間:量子力学的な重ね合わせ状態を用いて符号される量子ビットの情報は、外界の雑音の影響を受けることで、時間の経過とともに失われていく。情報保持時間は量子ビットが情報を保持していると考えられる典型的な時間を指していて、コヒーレンス時間と呼ばれる。
 注5)同位体制御シリコン:自然界に存在するシリコンは、3種類の同位体(28Si、29Si、30Si)からなっており、質量数のほかに原子核の有するスピンが異なる。このうち原子核にスピンがない同位体の1つ(28Si)を分離して用いることによって、電子スピン量子ビットに理想的な磁気的雑音の少ない環境が実現する。
<資料提供:JST>